グレート草津 逝く
1965年8月に日本プロレスに入団。豊登から出身地の熊本にちなんで草津清正のリングネームを付けられ、ジャイアント馬場の付け人となる。1966年3月21日、本間和夫戦でデビューするが、団体の放漫経営に嫌気がさし、その年のうちに退団。同じく同団体を退職していた吉原功とともに国際プロレス(以下「国際」)の旗揚げに参加する。
1968年1月3日、TBS定期放送初回でルー・テーズに挑戦したTWWA世界ヘビー級選手権でのKO敗戦は、草津がその後遂にエースになれなかったこと、また国際プロレスが苦しい経営を続けて終焉を迎えたことから、草津のレスラー人生のみならず、団体の運命をも決定づけた一戦として、早くから伝説的に語られてきた。「失神」とされることが多いが、完全な失神はしていない[要出典]。
プロレス入りから2年半足らず、海外修行から戻ったばかりで国内での試合実績の乏しい草津のエース登用は、フレッシュなスターを求めるTBSの強い要望であったといわれている。放映初戦で超大物のテーズを倒しての戴冠となれば大きなインパクトがあったが、惨敗でその目論見は崩れてしまった。
この試合については様々な解釈がされてきたが、大別すれば「キャリアの浅い草津が受け身を取り損ねた」と「テーズが意図的に受け身の取れないバックドロップを仕掛けた」の二通りに分かれていた。いずれにしろ、草津は試合放棄をせざるをえない程の深いダメージを負い、実際に半失神状態になった、との見方が一般的であった[要出典]。
21世紀以降、暴露本の出版等により「プロレスは基本的に予め決められたシナリオ(ブック)通りに進行するものである」という認識が一般化した。それに伴いこの試合についても、「そもそもどういうブックであったのか?」「半失神状態もブックではなかったのか?」という疑問が提示され、見方も混沌としていった。
そのような状況の中、2005年発行の書籍『悪役レスラーは笑う』(森達也著)中のインタビュー記事において、草津本人がこの件に言及した。それによれば、1本目を取られた後、グレート・東郷の「キープ・ステイ・ダウン(そのまま寝ていろ)」という指示に従って起き上がらず、試合放棄という結果になったとのことである。これは半失神状態が演技であったことを、本人が初めて具体的に認めた証言として興味深いものであった(なお、「草津が酒を飲みながら話をしていたし、記事自体も森の憶測で書かれている部分があるので、信憑性は薄いのではないか?」との意見もある[要出典])。
テーズ戦後しばらくは低迷したがまもなく立ち直り、パワー、スピード、テクニックを備えた国際の中心レスラーとして長く活躍した。IWA世界タッグ王座を計5人のパートナーと長く保持した他、英国西部ヘビー級および同南部ヘビー級王座、ヨーロッパタッグ王座などシングルタイトルも獲得した。ビル・ロビンソンら欧州勢にはテクニックでわたり合う一方、ワフー・マクダニエルにはインディアン・ストラップ・マッチで勝利するなどラフにも強く、オールラウンドタイプのレスラーであった。アメリカ遠征でもバーン・ガニアのAWA世界王座に何度も挑戦するなど実績を残した。1971年12月にはネブラスカ州オマハにおいてガニアを倒し一度は世界王座を手にしたかに思えたが、草津の反則があった為、判定が覆り幻の王者となっている。
覆面レスラー、ザ・キラーと日本初のチェーンデスマッチを行った事もある。試合はチェーン装着前にキラーが草津に襲い掛かり、早々に流血させられたが最後はバックドロップで草津が逆転勝利している。顔面を血で染めた草津が、チェーンでキラーの首を締め上げるシーンはなかなか迫力があった。因みに国際プロレスはラッシャー木村の「金網デスマッチの鬼」に対抗して、草津を「チェーンデスマッチの鬼」に仕立て上げようとしていた時期があった。
しかし、日本では単独エースの立場になることは遂になく、主にエースのストロング小林やラッシャー木村らの二番手でタッグ王者が定位置だった。1979年1月にはIWA世界タッグ王座を失い無冠に転落、以後は試合には出場するが一歩退いた位置に身を置くようになり、TVマッチへの登場も減った。1980年6月、試合中にアキレス腱断裂の重傷を負い長期欠場する。欠場中の1981年8月に国際プロレスは活動を停止し、そのまま引退した。(Wikipediaより)